「こころの時代」の美しいテーマ曲※が好きです。
作曲は、1949年に香港出身の父、日本と中国のハーフの母の間に生まれたウォン・ウィンツァンさん。
※ウォン・ウィンツァンさんご自身がYoutubeにアップされていた映像にリンクしています。
★今年の4月初旬、書店でNHKテキストが並ぶコーナーでこのテキストを購入しました。
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テキスト目次
・第1回:「法華経」との出会い(4月23日放送)
・第2回:「春」と「修羅」のはざまで(5月28日放送)
・第3回:「ほんとうのたべもの」としての童話(6月25日放送)
・第4回:あまねく「いのち」をみつめて(7月23日放送)
・第5回:理想郷「イーハトーブ」の創造(8月27日放送)
・第6回:「デクノボー」としていきる(9月24日放送)
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3月~5月、
小野千世さんの旭川での原画展とお話し会に向け、前年の秋からスケジュールやポスター・フライヤー作りを始めました。3月15日に東川町から始まった旭川での公演が無事終わり、翌16日旭川空港から小野千世さんご夫婦と一緒に飛行機に乗り、羽田空港で住まわれている街までのリムジンバスを見送るまで、アテンド役として頑張りました(妻恵子も同行し、一緒に支えてくれました)。
しかし、頑張り過ぎたためでしょうか、3月下旬に肺炎が発覚、入院となってしまいました。
そして退院した日に寄った書店で、このテキストを見つけました。
退院はできましたが、自分の身体がどうなっていくのか、今後の治療も見えませんでした。そのためテキストは購入したものの、果たして9月の放送まで見ることができるのだろうかと不安な日々が続きました。
それでも、第4回の最愛の妹トシとの別れを書いた詩「永訣の朝」がテーマ、第6回と「雨ニモマケズ手帳」、この二つの回は、なんとしても見たいという強い気持ちを持ち、5月から肺炎の治療を併用しながら、副作用の厳しい治療に臨みました。
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7月初めには、昨年秋からプリンティングコーディネーター(カラリスト)として携わってきた『岩田道夫の世界』(未知谷)の刊行が予定されており、本をぜひ手に取りたいという気持ちも強くありました。ぼくにとって、最後の大仕事だと思っていました。
第4回の「永訣の朝」の放送を見ている時には、できあがった本を手にしているはず・・・、いつしかこの放映の回が、生活の一里塚(〝マイルストーン〟の方が現代風ですが、敢えてこの言葉を使います)のようになっていきました。
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今、放送を全て見ることができ、ホームページを書いています。一里塚を越えることができました。
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*「永訣の朝」の思い出と発見
この詩は、高校の国語の時間に教わりました。教えてくださったのは池田千代吉先生、明治42年(1910年)生まれの生粋の〝浜っ子〟です。60歳の定年を過ぎた先生でした。ぼくたちとは40歳以上離れており、〝お年寄りのおじいさん〟に見えました。ただ、その池田先生が「永訣の朝」を、教壇から跳ね上がるように飛び降り、鉄砲玉のように外に飛び出し、御影石の上に立ち雪を掬う賢治を真似て朗読された姿は、50年経った今もぼくの脳裏に残っています。
今回テキストを読んでいて二つの発見がありました。
ひとつは詩の一節「どうかこれが兜率(とそつ)の天の食(じき)に変(かは)つて」(文章をクリック。マイナビニュースの現代語訳にリンクします)は、最初は「どうかこれが天上のアイスクリームとなつて」であったことでした。賢治は修正を繰り返し、宮沢家本で「兜率の天の食」になったようです。
ぼくにはこの〝アイスクリーム〟という表現が愛おしく、より賢治に親近感を持つことができました。
北川前肇(きたがわぜんちょう)先生も、この〝アイスクリーム〟という響きを好まれていたように見えました。
もうひとつは、日本女子大学で学んでいたトシさん[明治31年(1892)~大正11年(1922年)]がハンセン病患者の療養施設を慰問していたことでした。おそらく行ったのは、明治42年(1910年)に設立された多磨全生園だと思います。当時はまだ十分な治療設備もない施設であり、ハンセン病患者の厳しい姿を目の当たりにしてきたのではないでしょうか。
その10数年後の昭和8年(1933年)、上皇后美智子様の心の相談相手もされた神谷美恵子(みすず書房の著作集にリンク)さんも多磨全生園を慰問しています。
トシさんが健康であれば、神谷美恵子さんといつか接する機会もあったのかもしれません。
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賢治とトシの新たな一面を教えてくださった北川先生に、感謝したいと思います。(2023年10月)