最近、自分が中央線の小金井市に住んでいるのか考えるようになりました。

 中央線(中央本線)は信州の山へとつながっています。ぼくは信州の山に憧れていました。そのきっかけになったのが串田孫一さんの『山のパンセ』でした。

 もうひとつは、横浜の家にあった「わたしたちの地理」の表紙で見た上高地の写真です。今見ると本当に地味な写真ですが、当時のぼくには別天地に見えました。

 発行所:国際情報社 
昭和44年3月5日発行

 そして高校二年の夏休みに、中学時代の友人と上高地へ二泊三日の旅を決行。

薄いヤッケの下は半袖のシャツ
無謀な少年でした

 行きの列車は、新宿駅23時50分発の深夜急行アルプス。近くに座った大学生から声を掛けられ、信州の山の魅力をたくさん聞きました。その人たちは慣れているのでしょうか、いつの間にか座席で寝入っていましたが、ぼくはなかなか眠ることができずに、最後は通路に新聞紙を敷き寝ました。何人もの人が、顔の上を跨いでいったことを覚えています。

 一泊目は白骨温泉のユースホステルに泊まりましたが、二泊目は上高地の大正池の河原で無謀にも野宿をしました。

 上高地の売店で、防寒のため新聞を買い込み、ヤッケの中にたくさん詰めたのですが、背中に冷たく大きな石が当たり、寒くてほとんど眠ることができませんでした。

 朝は真っ白な朝もやの世界でした。姿は見えませんでしたが、動物の鳴き声がしきりに聞こえてきたことを覚えています。

 この山行を決めたのは、串田さんの『山のパンセ』に触発されたのは間違いありません。

『山のパンセ』の文章を読んでいると、どこか半分夢の中を歩いているような気持ちになってきます。

箱蓋には、小さな文字で〝寂しい山へ、黙って登ってください。〟と書いてあります。

 高校生にはわからないところも多くありましたが、背伸びをしたい時期でもあり、それも楽しかったのだと思います。

現在では怖くてできない山行でした。親も計画を問うことなく、よく送り出してくれたと思います。

 

 この深夜急行アルプスが走っていたのが中央線でした。最初に東京に住み始めた場所は職場と学校に便利な東西線(落合)、次は仲間が多く住んでいた京王線(芦花公園)、三回目の引っ越しで、中央線が市の真ん中を通る小さな小金井市を選びました。

そして、串田孫一さんも小金井の住人であることを後に知りました。(2023年7月)