至光社では、月刊誌『こどものせかい』とは別に、『ひろば』という季刊誌を出しており、昭和34年の1号から、昭和56年の92号まで続きました。
その中で、昭和39年の21号から始まった美術プロムナードは、戦後絵本を開拓してきた武市さんの視点から、ユニークな童画家を紹介する特集でした。茂田井武さんから、堀文子さんまで20人が登場しています。日本が絵本大国になった現在、あらためて見てほしい日本の童画家です。
号 | 発行年 | 季節 | 美術プロムナード 登場童画家 |
21 | 1964 | 春 | 茂田井武 |
22 | 夏 | 初山滋 | |
23 | 秋 | 武井武雄 | |
24 | 冬 | 清水義雄 | |
25 | 1965 | 春 | 川上四郎 |
26 | 夏 | 岡本帰一 | |
27 | 秋 | 村山知義 | |
28 | 冬 | 深沢省三 | |
29 | 1966 | 春 | 小山内龍 |
30 | 夏 | 河目悌二 | |
31 | 秋 | 中尾彰 | |
32 | 冬 | 安泰 | |
33 | 1967 | 春 | 谷内六郎 |
34 | 夏 | 清水崑 | |
35 | 秋 | 吉沢廉三郎 | |
36 | 冬 | まつやまふみお | |
37 | 1968 | 春 | 樺島勝一 |
38 | 夏 | 大沢昌助 | |
39 | 秋 | 川上澄生 | |
40 | 冬 | 堀文子 |
第1回に紹介された茂田井武(1908年9月29日~1956年11月2日)さんは、明治41年に東京の日本橋に生まれています。昭和4年、21歳の時にシベリア鉄道でパリに向かい、さまざまな職業に就きながら欧州を3年間放浪しました。帰国後、挿絵を描き始め、昭和16年からは童画を描くようになりました。戦後は、児童書にたくさんの挿絵を、星を撒くように描いていきました。しかし、持病の気管支喘息に肺結核も患い、昭和31年に48歳で亡くなっています。
美術プロムナードでは、茂田井さんが、構想を練りながらも未完に終わった「七人の七つの旅」(2ページ)と、茂田井さんの病床日記の1ページが掲載されています。
次に、茂田井さんの絵に心酔し、ファンレターを書いていた谷内六郎さんが、熱い言葉で茂田井さんのことを書いています。そこでは、茂田井さんの絵を「内面で燃焼する情熱をグッと押さえ、黒い墨の塊ひとつにもあらゆるものが、濃く圧縮され入っている」と書いています。谷内さんにとって、茂田井さんの絵はまさに『宝石』だったと思います。
○
ぼくは絵本製版の仕事に就いてから、茂田井さんの絵を知りました。童画でありながら気迫が迫ってくる、谷内さんの書く「内面で燃焼する情熱」が、時を超えてぼくにも伝わってきました。
他にも、茂田井夫人の政子さん、友人の安泰さん、児童文学者の藤田圭雄さんが書いています。政子さんは、子煩悩であった茂田井さんの日々の生活を短い文章で綴っており、茂田井さんの素顔を知ることができます。
武市さんは、編集後記に「前から夢だった茂田井武先生のささやかな特集が、この号で実現できてうれしい」と書いています。 至光社が苦しい時代に、「稿料はいらないから、僕が全部絵はかく。とにかく続けましょうよ、一緒に」(※)と、励ましてくれたのが茂田井さんでした。武市さんの胸の裡は、茂田井さんの思い出で一杯だったことと思います。
※「えほん万華鏡」(武市八十雄・岩崎書店)より
○
小野千世さんから赤ペンで書かれたコメントには、
- 茂田井さんは、私には絶対に届かない「星」であり、「流星」と書いてありました。
- 谷内六郎さんが書いた茂田井さんの画風に対し、「私にとって茂田井さんの絵は、重たいワインに似ています。谷内先生も少し似たところがあります。あの絵の濃さが、私には時々重く思え怖かったです。命を圧縮したような濃さに感じていました」と書いてありました。
小野千世さんにとっても、茂田井武さんは忘れられない画家だったようです。
最後に、「六郎さんのことを書いてくれてありがとう」とありました。小野さんにとって、谷内六郎さんが絵の先生であり、その先生の先生が茂田井武さんでした。(2022年7月)