少年時代、印画紙を現像液に浸すと少しずつ銀で作られた像が浮かび上がってくるのを見た時の驚きが忘れられず、写真のルーツを一生追い続けた平野さんでした。
最後は、ぼくに届いた二通のハガキを紹介して終わります。一通は、平野さんが亡くなる前年のもので、通信面に俳句が書かれていました。
ひく波の跡美しや櫻貝
この句が、平野さんの心を捉えました。松本たかしという俳人の句です。ぼくもその情景が見えてくるようで、心が穏やかになりました。
松本たかしのことをもっと知りたくなりました。『昭和俳句文学アルバム 松本たかしの世界』(1989年 梅里書房刊・編纂:上村占魚)を見ていくと、少年時代のたかしさんの写真が載っており、そこにはおのちよさんのお父様近藤礼さん も一緒に写っていました。
この写真を、平野さんのハガキと一緒に、おのちよさんに送りました。ちよさんもこの写真を見たのは初めてだったようで、驚きとお礼の手紙をいただきました。
平野さんのハガキには、「このところ、この一句に釘付けにされています。あきらかにみちくさですが、ごめんなさい。でも、短い言葉で表した、この風景と空間を何度もなんども繰り返し(味わって)います。」と書かれていました。〝みちくさ〟とは、ライフワークである写真の総仕上げ(最後まで探求されていました)をしている時に、立ち止ってしまったことを指しているようでした。
カメラを手にすることが無くなった平野さんにとって、俳句の『五七五』と『余白』は、限られたカメラフレームの中で、被写体をどう切り取り、空間をどう生かしていくかは、写真撮影と共通していると感じたに違いありません。俳句が写真に見えてきた喜びと、わくわく感がハガキから伝わってきました。
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もう一枚は、ゴーヤモーニングです。
平野さんから届くハガキは、どれもぼくには仕事と生活の知恵がたくさん詰まっていましたので、宝ものでした。その中で、この『平野式』と書かれたゴーヤのハガキだけが、不思議な一枚に見えました。この『平野式』で作るゴーヤは、苦味が強く出ます。ハガキには「バリバリ食べると元気が出ます」と書いてありましたが、平野さんにとって、この苦味は季節を感じ、生きていることを実感できる味であり、それを友人に伝えたかったのかもしれません。ぼくは、毎年ゴーヤがお店に並び始めると、平野さんのことを思い出します。
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平野さんは、写真を学んだ母校である千葉大学の『画像系学科100周年記念誌』への寄稿を書き終えたその夜、静かに亡くなりました。2016年3月13日でした。
まさに、写真とともに歩み続け、写真を夢に見ながら、最後は写真の中に入ってしまった人生でした。
空の上で、まばゆい光の中で、日光写真を思う存分楽しんでほしいと思います。平野さん、ありがとうございました。〈終わり〉(2022年3月)
〈文章教室にて〉小野千世さんにこの文章は喜んでもらえました。そして『花の小面』(能面)のプリントが配られ、小さな頃に、千世さんご自身も能稽古が好きだったことを話してくれました。
千世さんからの添削コメントには、「心こもる作文でした。終わったところで、なぜかドッと涙が出てしまいました」とありました。ぼくも、書くことで記憶が鮮明になったことを心より感謝しています。