『多川精一のグラフィズム』は、多川精一さんの甥・永井 Sさんの武蔵野美術大学の卒業論文です。この一冊は、多川さんが亡くなられた後、奥さまより譲り受けました。多川さんらしく、文中に吹き出し線で赤字が入っていました。
また、多川さんからもお亡くなりになる前に見せていただいたことがあり、「この本ができたので、私の三部作の最後は書かなくてよくなりました」と笑って話されていたのを思い出します。
今回、この 『多川精一のグラフィズム』 のことを書こうと思ったのは、新聞に載っていた武蔵野美術大学の柏木博先生の「惜別」を読んだからです。1月の文化面にも「デザインから暴いた近代日本-デザイン評論家 柏木博さんを悼む」(寄稿:高橋直之さん)が載っていました。柏木先生は、 永井Sさんの担当教授だったようです。卒論を書き上げ就職活動をしている時に、多川さんから永井さんを紹介されました。大学の友人と二人を印刷工場に案内したことがありました。
卒論テーマを柏木先生に相談したところ、「お身内に十分テーマになる人物がいるではありませんか」と、多川精一さんのことを柏木先生は暗にご指名されたようです。柏木先生は、戦中戦後の社会を、グラフィックアーツの道で生きてきた多川精一さんをよく知っていました。
ぼくは、柏木さんにお会いしたことはありませんが、いろいろなところで文章に接しており、共感して参考にさせてもらった文章はたくさんあります。
『FRONT』についても、集英社の文芸雑誌『すばる』(1990年10月号)で、デザイナーの田中一光さんと対談をされた文章が掲載されています。『FRONT』の誌面デザインの分析と、デザインの中心にいた多川精一さんの師匠原弘さんのデザインの特徴、東京と関西・京都のデザインの育まれる風土の違いなどが書かれています。この『すばる』の号には、多川さんご自身も「『FRONT』は何のために作られたか」を寄稿しています。
〇
永井さんは、多川精一さんにインタビューを繰り返し、この卒論を完成させています。残念ながら、卒論に対する柏木先生の評価はどうであったのか、聞くことはできませんでした。
追記:永井さんとは、多川精一さんの『紙魚の手帳』の誌面でも接点がありました。(2022年2月)