1913年(大正2年)4月29日横浜の中心街で生まれました。家は中区曙町で大きな呉服商を営んでいたようです。
幼稚園の頃から団体生活が苦手で、学校には行かずに、毎日のように映画館に通い、外国映画に夢中でした(『なのはなおつきさん』付“自伝的遍歴のあと”より)。
1931年(昭和6年)川端画学校を卒業〈18歳〉。宮本三郎画伯に師事。
その後、映画雑誌の似顔絵コンクールで一位になったのをきっかけに、1935年(昭和10年)の『映画之友』3月号から表紙の絵を描き始めました。
その後も、アメリカの映画会社二十世紀フォックス・コロンビア、ヨーロッパ映画の配給会社エンパイヤ商事、東宝美術部などに席を置き、32歳で終戦を迎えました。
戦後は、フリーとしてコロンビアレコード、キングレコードのポスターやレコードジャケットの絵を描いていたようで、この時期映画雑誌だけではなく、名前を変えてカストリ誌の表紙を描くこともあったようです。
1954年(昭和29年)に二科展に応募。その後、美術団体に次々と応募し、特待などを受賞しています。後に鈴木義治さんは「自分の(絵の)勉強の在り方を確かめるため」と語っています(『なのはなおつきさん』付“自伝的遍歴のあと”より)。現在応募された作品を見ることはできませんが、似顔絵画家から一歩踏み出すことが目的にあったようです。
1957年(昭和32年)、講談社の子会社である東都書房より『コタンの口笛』(石森延男 文)の口絵と本文さし絵と本の装幀(現在でいうブックデザイン)を手掛け、出版界にデビュー。キングレコードは講談社の子会社のひとつであり、レコードジャケットを作成していた頃からの接点があったのかもしれません。
昭和40年に入ってからは、東都書房だけでなく様々な出版社の本の装幀も手掛け、児童文学のさし絵や絵本が仕事の中心となっていきました。『キューポラのある街』(早船ちよ 文・理論社)、『赤毛のアン』(L・モンゴメリー 文・講談社)、『シラカバと少女』『もうひとつの夏』(那須田稔 文・実業之日本社)のさし絵など多数。
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児童出版に関わる受賞は、『まちのせんたく』『ネコのおしろ』で小学館絵画賞(第18回・1969年 昭和44年)、『雨のにおい 星の声』で産経児童出版文化賞(第35回・1987年 昭和62年)。
絵本の代表作としては、『小さな小さなきつね』『にげだした学者犬』『山びこのメルヘン』(鈴木義治画集)があります。また、『一つの花』(今西祐行 文)『大もりいっちょう』『ガラスの花よめさん』(ともに長崎源之助 文)など、戦争を題材としているものが多いのも特徴です。鈴木義治さんの独特の筆致がこれらの題材に向いていたのかもしれません。
「軍籍で北辺に居た以外は、横浜で育ち、勉学・仕事・結婚と東京―横浜の間を行ったり来たり。まことに狭い世界、小さな人生ではあるが、本人は諒承の顔。」(『童謡の世界』あとがき 1978年 昭和53年)。多くの児童文学の作品にさし絵を描いていますが、そのほとんどがロケハンを行うことはせず、文章を読み心に湧いてきたイメージで描いていたようです。
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70歳を過ぎてからもさし絵の仕事は続け、ペン画と鉛筆画を織り混ざぜた挿絵の『白いお母さん』(1986年 昭和61年・偕成社刊 肥田美代子 文)、『好きだよっていいたくて』(1988年 昭和62年・大日本図書刊 桜井信夫 文)があります。
(2021年11月)(追加加筆:2022年8月8日)
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※ここから先を更新しています。
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平成に入ってからも『三人の0点くん』(1993年 平成5年・新学社刊 岡本良雄 文)があり、この本に描いた挿絵がおそらく最後ではないかと思います。掠れるような薄い鉛筆で描かれていた鈴木義治さん80歳の作品です。
最後まで、物語を邪魔することなく、文章にそっと寄り添う挿し絵であったと思います。
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出版の世界から離れてからも、最後まで絵筆を離すことはなかったと思います。
2002年7月3日にカトリック磯子教会で臨終洗礼を受け、7月4日に帰天。洗礼名は「ヨセフ」。
カトリック磯子教会は、ホームページのメニューの「日々の中で」にある「近くて遠い山 丹沢」で、紹介しているハンス・シュトルテさんが主任司祭をしていた教会でした。
(2023年9月)