多川さんのことを文章にするのも残り2回となりました。ぼくをじろりと睨み、「オイオイ、これで私を語ったつもりかい」と話す多川さんの声が聞こえてきます。また、その声に重なるように「チカシマサン、ワタクシノコト、マダマダタリマセン」と話すハンス・シュトルテさんの声も聞こえてきます。文章を書いていくほど、この声は大きくなってきます。
多川さんの愛していたものに、使って短くなった鉛筆があります。「鉛筆は大事な相棒。短くなっても捨てられなかった」と話していました。最後まできれいに削った鉛筆が、大きな瓶の中に詰まっていました。多川さんが亡くなり、お邪魔した際に瓶の中から数本小さな鉛筆をもらってきました。
多川さんの奥さまは、多川さんがレイアウトした本や仕事で使っていたノート類を、数冊の本を残してすべて処分したいと話され、その中からぼくは「敗戦日記」と「備忘録」をもらい受けました。「備忘録」は、50歳を機に多川さんが記憶を頼りに書いたノートです。最初のページには米穀類購入通帳が挟まれており、まずご両親や兄弟のことが書かれています。
ノート見開き2ページを1年単位として、左ページにはその年の主な出来事、右ページには携わった仕事が書かれています。1948年(多川さん25歳)からは年収も書かれています。25歳の年収は111,305円とあり、67歳まで続いています。ご自分で年収を書くことは、会社に属さない生き方を選んだ多川さんの拠り所であったと思います。ぼくの生まれた1956年(多川さん33歳)には、「8月岩波書店より平凡社に戻る・ペリカン文庫嘱託となる/11月メルボルンオリンピック/12月石橋内閣国連加盟承認・カストロキューバ上陸」とあります。年収は1,076,623円と書かれていました。ぼくの生きてきた時代をたどることのできる貴重なノートです。
そして2007年の8月に「84歳になる。悪いところはないが全体に老化が進む。頭の動きも悪くなる。自然の摂理か。酒は毎夕コップ半分/タバコ数本」で、ノートは終わっています。
その数年前のページの1行に〈近島〉の文字を見つけました。ノートの中に、ぼくも書かれていたことを知り、大変うれしく思いました。教えてもらったことは、グラフィックに関する技術や写真の見方とともに、もっとも大きかったのは『生き様(ざま)』だと思っています。
「ものわかりのよい大人になることなど考えないで、最後までじたばたと生きなさい」と話す声が聞こえてきます。晩年、机の横にベッドを置いて寝床にしていました。そこには小さな箱にメモ帳と鉛筆が入っており、薄い字で俳句が数句残されていました。その中の「往生に高すぎる雲夏の空」が、多川さんの心を映しているようにぼくは思いました。
多川さんの甥が書いた『へそ曲がりデザイナーの60年史』の「へそ曲がり」とは、変化に対応できないがんこ者のことです。ただし見方を変えれば、時代に振り回されない人のことでもあります。このへそ曲がりの生き方をぼくも生きてみようと思っています。 にやりと笑い「やってごらん」と話す多川さんの声が聞こえてきます。 (続く)
〇
この文章を発表した授業で、ある生徒の方が「僅差」という言葉を文章にしていました。「・・・人が悲観的になって、落ち込んでしまう気持ちと、前を向く気持ちを持つ心の差は48対52、実は僅差なのだ。・・・」その方は、少し身体が不自由なようですが、いつも早くに教室に来ています。じわじわと勇気が湧いてくる言葉でした。(2021年12月)