1984年ひくまの出版から出版された『なのはなおつきさん』には、〈母と子の楽しいノート〉という4ページの付録が付いていました。そこに、「自伝的遍歴のあとー鈴木義治先生からの手紙」という文章が載っています。700字ほどですが、あまりご自身のことを語らない鈴木義治さんにとっては貴重な内容と思いましたので、以下に転用させてもらいます。

空から落ちてくる不思議な「線」が印象的

 文章は「こんどの生源寺(しょうげんじ)さんとの仕事は 懐かしい忘れかけていた抒情の世界の発見といった意味で、ほんとうにうれしかった。」で終わっています。

 《鈴木義治さんの素顔Ⅰ》の音声の中で、鈴木義治さんは画集を配達してくださった本屋さんに、「・・・仕事を離れて、子どもと、子どもらしい絵を描きたい」と言っています。絵の方向性が見えてきたのかもしれません。

 翌年の1985年には、〈ユッセの会〉から岡田純也さんの文で2冊の絵本を出しています(編集発行は中央出版株式会社)。この2冊も、義治さんが目指した絵なのかもしれません。

 至光社の武市八十雄さんは、絵本の絵のことを話す時、「稚拙美」(一見稚拙に見えるが、素朴で純粋な美しさ)という言葉をよく使っていました。武市さんが 「稚拙美」 で引き合いに出していたのは、茂田井武さんでした。茂田井さんは1908年生まれで、1913年生まれの鈴木義治さんとは時代が近いです。茂田井さんは日本橋生まれ、義治さんは横浜生まれのともに都会っ子、そして川端画学校に学んでいたことも共通しています。ただ、茂田井武さんは数年ヨーロッパを彷徨していますが、義治さんは横浜を離れなかったところは違います。それでも、同じ時代の空気を吸っていたと思います。

 《大学で紙しばい(前編)》のスライドの中でも書きましたが、義治さんの絵は絶えず変化していきました。その絵の長い道程(みちのりで、「ほんとうにうれしかった」と書いた義治さんの心境は、絵の到達点が見えたことであったかもしれません。

 「自伝的遍歴のあとー鈴木義治先生からの手紙」 の中で、義治さんが名を挙げていた映画評論家・淀川長治さんの言葉が新聞に載っていました。

朝日新聞2022年4月12日

 「日曜洋画劇場」上映後に、淀川長治さんが話す「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の声は今も耳に残っています。義治さんならどのような解説をしたでしょうか。淀川長治さんは1909年(明治42年)生まれと、義治さんと年齢的にも近い人でもありました。(2022年4月)