小学校3年生の夏、クラスから人がいなくなった時、学級の本棚にあった雑誌から欲しかったきれいな船の図面を破り取り、そのまま本棚に返しておきました。

 家でぼくがその図面を観ていると、破り取った跡を見ておかしいと思った母は、ぼくを問い詰めました。そして、ぼくの手を引っ張り、裸足のまま夜の庭に追い出しました。

  夏の夜の庭は、夏草の強い匂いが漂う密林。しゃがんでいると、本に対して卑劣なことをした自分が情けなく思え、涙があふれてきました。

  しばらくして母が庭にあらわれ、家に入れてもらうことができました。その後のことは覚えていません。ぼくの泣き顔を見て、母もそれ以上は話をしなかったように思います。

 翌日、先生に正直に話をして謝り、雑誌は自分で直しました。

 中学1年の思い出です。購入した書店と日付、そして自分の名前を書いた本を、母から渡されました。ロフティングの「ドリトル先生航海記」です。岩波書店から出版されていた美しい本でした。

 母は、自分の本を持つ喜びをぼくに伝えようとしたのかもしれません。この本もかなり歳を取りましたが、今も大切に持っています。

 高校生の思い出です。図書室の係をしていた隣のクラスの女子に、親しみを持つようになり、図書館によく本を借りに行きました。しかし、ぼくのような利用者を本の方も相手にしていなかったようで、つまらない本ばかり借りていました。

 それでも図書館に通っていると、少しずつ自分に合う本がわかるようになってきます。背表紙に書かれた文字、手に取った時の本の感触とインクと紙の匂いが、ぼくに語りかけて来るようになり、本がぐんと身近なものになってきました。

 現在もこの感覚を頼りに、本を選んでいることが多いです。

発行所:左右社(2021年刊)
美しい黄色いコデックス装の綴糸
最近本屋さんで手に取った一冊

 最後は大学の思い出です。大学で一番足を運んだのは教室ではなく、古い蔵書がたくさんあった文学部の図書館でした。この図書館で、本が発する独特の匂いを強く感じるようになっていきました。

 小学校の時の夏草の匂いが若人の匂いとすると、この図書館の本の匂いは、静かなお年寄りの心安らぐ匂いに感じました。

 ある事情で、ぼくは大学4年時に大学を去ることになりました。最後に行ったのはやはり図書館でした。1年の時からぼくをよく知る司書から「チカシマさん、大学から離れても本からは離れない社会人になってください」と言われました。 

 ぼくにとって、本はいつも匂いとともにあったように思います。(2023年9月)