目次に「制作と受験」という章がありました。冒頭からの文章を引用します。

現代美術社「美術 自然から学ぶ2」(昭和63年検定済)

 「上の作品は、二人の高校生が大学受験を半年後に控えながら描いたものだ。当時、二人とも、自分の表現と、受験準備のデッサンとの間で、不安と焦燥に駆られた日々を過ごしていた。彼らが揺れ動く心を抱いていたことは、容易に見てとれた。

 高校の美術教師ならだれでも経験していることだが、受験という魔物に対面した彼らの情況は、毎年見慣れたものであったけれども、そのまま、教師としての私自身がさらされている今日的情況であるとといえた。〝制作と受験勉強は別物だから・・・・〟

 ・・・・・・自分を無に化して、一つの方式を身につけることが受験ではないか。

 ・・・・・・高校での勉強だけでは、ほんとうに大学への関門はくぐれないのだろうか。

 ・・・・・・もし失敗させてしまったら。

 ・・・・・・しかし、高校は単に大学への踏み段としてあるだけでよいのだとうか。

 私は、ものごとに「感動」できる「感性」がまず基本だと思う。

  (中略)

 私は思う。大学で何を学びとろうとするのか、大学でなければ学べないものとは何なのか、と。

 高校へ入ったら大学へ行くのが当たり前で、そのためには受験を通らなくては、ということで自分を殺してしまうのは、何のための高校であったのだろうかと。」(終わり)

 形は変わっても、現在もこの問題は続いているのではないでしょうか。現在の美術の教科書は美しくまた丁寧親切な美術書になりました。しかし〝底〟には、この問題がずっと続いていると思うと、この美しい教科書に逆に違和感を感じてしまいます。

 ぼく自身、現在もこれまでの仕事の延長の中でグラフィック教育を考える会に参加しています。そこでは、現役の高校の先生の声を聞くことができるのですが、話を聞けば聞くほど、この問題はずっと継続していると感じます。

 この問題をストレートに取り上げた現代美術社の教科書を、清々しく感じました。生徒と先生がこの問題を共有できる場を設けた現代美術社に拍手を送りたいと思います。

 ぼく自身は絵の道に進むことを考えたことがありません。それでも、高校時代にこの教科書に出会っていたいと思いました。生徒と一緒に〝迷い、悩み〟、寄り添っていく教科書でした。(2023年1月)