左:ぼくが使っていた高校美術の教科書(1970年 日本文教出版 )
中:現代美術社の高校美術の教科書(2001年)
右:新しい高校美術の教科書(2022年 日本文教出版)

 真ん中のひときわ大きな教科書を作っていた現代美術社は、今はもう存在していない出版社です。『美術・その精神と表現』は古本で見つけたものでしたが、読みながらどんどん引き込まれていきました。教科書の向こうに〝語り掛けてくる人〟がいる不思議な本でした。

 横浜の実家を処分する際も、教科書は処分してしまいましたが、高校美術だけは時々懐かしむように見るため手元に持ってきていました。しかし、この『美術・その精神と表現』 は、手渡されたリレーのバトンのようで、ずしんと重い感覚が手に残りました。そして、現代美術社の教科書や本を探していきました。

 2014年復刊ドットコムより出版された『子どもの美術』を手に取った時は、ページ数が少ないにも関わらず堅牢な製本に不思議な安堵感がありました。心を込めて作られた本であることは、子どもはきっとわかるのだと思いました。それは大人も同じだと思いますが、従来までの教科書との違和感を大人である先生は感じてしまったかもしれません。

 美術は、他の教科とは異なり〝与えられ〟て、それで終わってしまいがちです。そうではなく、自分の中にもあることを気付かせてくれる教科書が 『子どもの美術』 だと思います。バトンのような教科書です。

 復刊は2013年でしたが、1980年度用の教科書でした。〝幻の教科書〟と呼ばれていたようです。実際に、この教科書を公立小学校で採択したのは、東京の離島小笠原の1地区(2校)だけでした。

表紙の美しい切り絵は安野光雅さんの作品
背布も美しく、いつまでも持っていたい教科書です
復刊された教科書には解説が付いています(左の冊子)
そこに、この本を作った太田弘さんが紹介されています

 本の背に貼られた布の色もすてきです。穏やかな色合いは、日本の伝統色にも見えます。きちんと色彩設計がされているのでしょう。「子どもは将来の大人」そんなメッセージが、布の色からも伝わってきます。

 写真左の復刻版解説で、西郷南海子(みなこ)さんは「『子どもの美術』を生み出した人々」という文章を書いています。主筆の佐藤忠良さんと安野光雅さんの後ろで、評価されることの少なかった現代美術社社長の太田弘さん(1930~1992)を重要な人物と書いています。『子どもの美術』の発案者でありながら、経営不振の中で急逝された方でした。秋田出身の、文学を志しながら、学生運動に関わり大学を中退とだけ書いてありました(年齢的に萌芽期の安保闘争かもしれませんが、詳しいことはわかりません)。

 太田弘さんの意志は、次世代へのバトンだと思います。あらためて陽を当て、再評価されるべきと思っています。(2022年6月)

〈追記1〉

 インターネットで現代美術社のことを調べていると、みやぎ教育文化研究センターが発行している『別冊 センター通信 No.86 こども教育文化』に、春日辰夫さんがまとめた「短命だった教科書づくりの記」というレポートがあることを知りました。春日さんは、太田弘さんと教科書づくりに関わってきた一人です。センターに問い合わせをしたところ、冊子の在庫がありましたので、譲っていただくことができました。

 そのレポートは、1990年の夏から始まった小学校1・2年生の生活科の教科書づくりを丁寧に記録していきます。読みはじめてすぐに、太田弘さんの声がすぐ聞こえてきました。現在は会議を行う時は、人を追い込むような追及は避け、穏やかに進めることが多いです。しかし、太田さんが参加していたこの教科書つくりの会議では、「なぜなの」「どうなの」「根本的なところは」と、矢継ぎ早の投げ掛け(レポートの中では「かみつく」という言葉が使われていました)があり、参加している先生も「滅多切りにされた」気持ちになったと書かれていました。最初は、落ち込む先生もいたようですが、集まった先生も力を振り絞る中から新鮮な発想が生まれ、すばらしい教科書の構想が生まれていきました。

 残念ながら、文科省からの認定を受けるために、かなりの修正を強いられ、目指した教科書からはだいぶ離れてしまったようでした。実際の採択も惨敗でした。おそらく『子どもの美術』よりも採択率は少なかったのだと思います。春日さんは、「体をはって取り組み疲労困憊した太田にとって、採択結果のダメージはあまりに大きかったに違いない。間もなく遠くへ旅立ってしまった」と書いています。そして、太田さんの手紙の一部も紹介され、「夏はつらい日々です。敗戦の年からなのでしょうか。採択時という教科書会社の故なのでしょうか」とありました。

 小野千世さんも教科書の表紙を描いたことがありました。平成16年(2004年)に倒産した日本書籍の昭和55年の小学校国語(1年~6年)です。何度も描き直しの注文が入り、もう自分の絵ではなく、へとへとになりましたと話していたことを思い出しました。教科書づくりには、光の部分だけではなく影の部分もあるように感じました。

 『別冊 センター通信 No.86 こども教育文化』 には他にも、

  • 太田さんは、美術の教科書の印刷では何日も印刷会社に泊まり込み、満足する色が出るまで注文を出し続けた。・・・(だからこそ)他社の教科書にもあったゴッホの絵などとは格段の違いがあった。

 この文章にも共感しました。ぼく自身、教科書会社の人と印刷立ち合いを行ったことがあります。ほとんどの方が紳士的な対応であり、太田さんのような人とは出会いませんでした。おそらく、太田さんの印刷立ち合いは、印刷会社の人も最初閉口したのかもしれません。しかし、太田さんの情熱は印刷現場に伝わり、質の高い印刷物に繋がっていったと思います。

 一印刷人として、印刷現場を育てるのはこの情熱だと今も思っています。太田さんの情熱は、その後の現場のモノづくりの中に生き続けたと思います。印刷人として空にいる太田さんにお礼をお伝えします。〝太田弘さん、ありがとうございました〟(2022年7月1日)

〈追記2〉

  『別冊 センター通信 No.86 こども教育文化』 を送ってくださった、宮城教育文化研究センターのある方より、センターで運用されているブログ「mkbkc's diary」の、2022年7月9日『diary』で広がる人との出会い、世界との出会い〟の中で、ホームページを取り上げていただいています。ありがとうございます。

 現代美術社の教科書のことを、もう少し印刷人の目から考えてみたいと思っています。(2022年7月15日)