ハンスさんとの親しい関係は、すべてハガキと手紙のペンパルでした。電話で数回話したことはありますが、お会いしたことはありませんでした。

 2006年に、40年住み慣れた大船の修道院から、練馬のイエズス会の養老施設「ロヨラハウス」に移られました。ぼくはその年の5月に初めてお会いすることができました。移られてからのハンスさんの手紙には、白樺の皮が二度貼られて届きました。ぼくは子どものような気持ちで、お会いする前に 「ロヨラハウス」 を偵察に行きました。

 白樺はロヨラハウスの中庭にあるとのことでした。お会いする約束の前に、その木を見ておきたく、密かに忍びこんできました。

 当日は、とても緊張していたのでしょう、何を話したかほとんど覚えていません。覚えていることと言えば、ハンスさんが思っていたより小さい人であったことでした。ただ手はとても大きく、その大きな手で持って行ったチョコレートの箱を撫でながら、「チカシマサン、罪デスヨ!」と、笑いながら言われたことでした。食事制限をされていたのでしょうか、好物のチョコレートを我慢する姿は子どものように見えました。

 その後も、ぼくからはハガキを送り続けましたが、ハンスさんから届くハガキの字は少しずつ揺れて乱れていくのがわかりました。そして翌年の2007年8月31日に93歳で帰天されました。直接の死因は白血病でした。

 9月に四ツ谷のイグナチオ教会で葬儀が行われました。通夜の日、イエズス会の人と栄光学園の人が多く参列する中、ひとり一番後ろの席に座っていました。突然涙があふれ出て、止まらなかったことを覚えています。翌日の告別式にも参列しましたが、お墓はありません。お骨はイグナチオ教会の中に納められ、日本の土の中で眠るのではないことを知りました。本当は、丹沢にもつながる土の中で眠ってもらいたいと思いました。

 11月に偲ぶ会が大船の栄光学園で催されました。ぼくは卒業生ではありませんが、晩年のハンスさんと山歩きをしていた方の知己を得て参加させていただきました。本当にたくさんの人が集まっていました。そこにはハンスさんが山行で使われていた道具が所狭しと並んでいました。皆さんご自分で送ったものを手に取り、持ち帰っていました。ぼくの絵もありました。ハンスさんと天狗ブナそして丹沢のツツジをコラージュにした絵、ハンスさんにも喜んでもらった一枚です。ぼくもそっと持ち帰りました。神父さんは最後は何もかも地上に置いて、天に帰っていきました。

たくさんの人が集まった偲ぶ会
ハンスさんが慕われていたことが伝わってきました

 ハンスさんが亡くなり遠くなってしまった丹沢ですが、大きく引き伸ばしたハンスさんの写真を持って、2010年に天狗ブナに会いに行きました。天狗ブナの上からは、まだハンスさんが見ているような気がして、木に登り戯れてきました。

ハンスさんと天狗ブナそして丹沢のツツジをコラージュにした絵

 ハンスさんは、このいたずらをきっと喜んでくれたと思います。そしてこの遊び心の中に「フレンズ」のテーマである“ときめき”があると思います。ハンスさんからは、ユーモアと遊び心を持って、今を楽しく大切に生きることを教えてもらいました。

 ハンスさんありがとうございました。 終

偲ぶ会のスライドで紹介されたハンスさんが住んでいた修道院からの眺め
ハンスさんがいつも見ていた風景
富士山の右の山並みが丹沢山塊