製版の仕事を最初に覚えた会社で、5月の連休でカレンダーを作ったことがありました。場所と材料は会社が提供してくれました。まだ製版カメラの撮影のことしかわからない時でしたので、カレンダー作りは大変勉強になりました。まず、それぞれが絵を持ち寄ります。その絵を製版カメラで色分解します(※色分解のリンク先は1分半の動画。音楽が流れます)。この工程までをぼくが担当し、そこから先は絵を描いた各自で、色分解したネガフィルムの見当合わせと貼り込みをし、暗室に入りネガからポジへの返しを行い印刷用の原版フィルムを作りました。
ぼくが受け持った月は11月・12月でした。映画『屋根の上のバイオリン弾き』(1971年公開/監督:ノーマン・ジェイソン)の三人姉妹が踊る場面をイメージし、初雪に舞う姿をパステルで描きました。美術学校を出た人もいましたので、学生時代に描いたものを持ってきた人もいましたが、ぼくは新たに描きました。次に紹介する人も、新たに描いていました。
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今回、色校正と一緒に預かったままの原画を見て、新しい発見がありました。絵を描いたのは、レタッチの女性でした。あまり話す機会がない人でした。色分解をと渡された時、原画を見て少しドキドキしたのを覚えています。
見ていると、いろいろなことが想像できました。それは絵ではなく、描く時に使った道具についてです。
この絵は、透明フィルムに描かれています。はじめにロットリングペンで線を描き、その線を元にマスクをカッターで作っていきます(マスキング)。そして、そのマスクに沿ってエアブラシで塗料を吹き付けながら絵を描いていきます。
ロットリングペン、カッター、エアブラシ、これらはレタッチの仕事をする上で欠かせない道具でした。その人も、少しでも早くこれらの道具を使いこなせるようにと、練習も兼ねて描いていたのでしょう。ぼくも赤い泥絵具のオペークでマスクを作る作業がしたく、絵に濃い赤色を使ったのを思い出しました。濃い赤色は、製版カメラによる色分解だけでは濃い赤にすることはできず、その部分を二重露光で濃くする必要がありました。そのためのマスク作りがオペーク作業でした。やってみると大変でした。
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当時は週休二日制ではありません。週に六日間働くのが普通でした。そのため、休日はとても貴重でしたが、職場の仲間たちは、仕事を早く習得しようと楽しみながら自分の時間を使っていました。そのような中で、カレンダーは作られました。楽しい時間でした。
カレンダー作り以外にも、ある年の連休には、副工場長の実家の車両修理工場で、看板描きをしたこともありました。とにかく手を動かしていたい仲間のレタッチたちと3人で、動物の絵を描きました。これも楽しい思い出です。(2022年5月)
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● ● ● 更新 2023年12月 ● ● ●
自分で描いた絵を使ったカレンダーにも関わらず、何年のカレンダーだったのか忘れてしまったまま、調べることを怠っていました。
2023年の5月にグリンピースを送ってくれたあたらしい友だちから、調べる方法を教えてもらいました(便利com)。
1982年(昭和57年)のカレンダーとわかりました。版を作っているのはその前年ですので1981年の5月の連休で、ぼくはまだ24歳でした。
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当時、印刷の原版となる製版フィルムを作る工程には必ず暗室作業がありました。女性に暗室作業をさせるのはどうか・・・そういう時代でした。
昨年の5月に紹介した〈9月・10月〉のカレンダーの絵を描いた女性のレタッチは、偏見の中でがんばっていた人であることをあらためて感じました。
至光社の「こどものせかい」の製版を受け持っていた新日本セイハンにも、女性のレタッチの名前を見たことがありますが、少なかったです。
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カレンダーの年月を知ることができて本当にうれしかった。
年月がわかると、当時のことがより鮮明に蘇ってきました。中井町に住んでいた頃です。司の煮込みの味を知った頃でした。
また描いた絵をしまうところもなく、描いた絵の上に布団を敷いて寝ていた時代でした。
グリーンピースさんありがとう。(2023年12月)