*「雨ニモマケズ手帳」の思い出
フレンズで紹介している平野武利さんは、宮沢賢治が大好きでした。賢治の弟の清六さんにもお会いしています。
その平野さんから、コロタイプ印刷で作られた「雨ニモマケズ手帳」の複製をお預かりしていました。
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「こころの時代」第6回放送の「雨ニモマケズ手帳」の中で、清六さんの孫にあたる宮沢和樹さんが実物の手帳を持ち出演していました。
ただ、実物の手帳は背の部分がボロボロに劣化し、もう開くことができないと話していました。放送中も貴重品を扱うように、手にそっと持っているだけでした。
そして手帳が開けなくなる前に、複製を制作していたことを大変貴重だったと話していました。印刷の大きな価値のあるところです。
その複製が、コロタイプ印刷で作られたされた「雨ニモマケズ手帳」です。
放送の中で、北川前肇先生も、この複製を使って説明をされていました。
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〝復原版〟とあります。
現在このような言葉を印刷で使うことはありませんが、この言葉からも想いが伝わって来るようでした。
丁寧に、丁寧に、1ページずつ手帳を開いて写真撮影を行い、そのフィルムからコロタイプ用の玻璃版(はりばん)を製版し、印刷を行ったのだと思います。
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平野さんからは、この手帳と一緒に手帳にも別冊解説を書いている小倉豊文(1899年~1996年)さんの『宮澤賢治の手帳研究』(創元社)も預かりました。
この本は、昭和27年(1954年)に出版されており、複製の手帳が制作される20年前に書かれているものです。
この本にも、手帳の図版が載っています。賢治が亡くなったのが1933年ですので、この時点で20年が経った手帳でしたが、こちらにも丁寧に撮影された手帳の写真が載っています。
小倉豊文さんは広島大学在任中に原爆で奥様を亡くされ、被爆体験記『絶後の記録』を書かれた先生でした。
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2016年の1月に、平野さんから「差し上げたのに申し訳ないですが、賢治の『手帳』は返してください」と電話がありました。
平野さんにとって、宮沢賢治の手帳は心の拠り所だったと思います。
手帳をお返した年の3月12日に、母校『千葉大学画像系学科100周年記念誌』への寄稿を書き終え、編集をしている印刷学会出版部宛てに投函を済ませ、早くに床に付いたそうです。
翌13日、奥様の文子さんが声を掛けても動かないので、おでこに触れたところ冷たくなっていたそうです。
文子さんから連絡を頂き、駆け付けました。ぼくも平野さんの冷たくなったおでこに手を当てさせてもらい、静かなお顔を拝見することができました。
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こころの時代「宮沢賢治 久遠の宇宙に生きて」(北川前肇先生)を全6回見ることができ、たくさんの発見と次の一里塚を目指す気持ちをもらうことができました。(2023年11月)