1970年代に入り、絵本が盛んに出版されるようになってきました。しかし武市さんは、その傾向に不満を抱いていました。盛んになればなるほど、技巧に走りがちな絵が多くなり、絵の心が薄れていくように見えたのだと思います。そのことを武市さんは、「絵がイラストになっている」すなわち「イ(意=こころ)がラスト(後回し)」と、おどけて言っていました。しかし、そこには詩情や心情を大切にする、武市さんの気持ちが込められていました。決して、イラストそのものを否定していたのではありません。楽しくユーモアを感じるイラストは、『こどものせかい』の中にたくさん使っていました。
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絵本の質を上げるための製版と印刷の追及が一段落し、世の中も豊かになってきた中で、絵本とは何かを考え始めていました。
1973年から、絵本を専門に扱う月刊誌『絵本』(盛光社)がはじまり、至光社の絵本も取り上げられました。そこで、武市さんは児童文学者であり翻訳者でもあるの森久保仙太郎さんと、〝感じる絵本〟という題で対談をしています。
内容は、出版社が作る絵本が、同じ方向に偏ってしまうことなく、いろいろな方向を目指していくことの大切さを話しています。その中で、至光社は〝感じる絵本〟を目指していきたいと語っています。武市さんの語る〝感じる絵本〟とは、自分の目で見て、向き合うことのできる感性を育む絵本のことでした。
至光社の絵本は、年齢を問わず感性を大切にしていこうと、「0歳から100歳までのすべての子どもたちへおくる」絵本を現在も目指しています。
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この対談の中で、武市さんは野球にたとえて話をしています。多様な方向性を持つ絵本が必要なのは、一番バッターには一番バッターの役割があり、九番バッターには九番バッターの役割があることと重ねて話しています。また、絵本の起承転結の「転」を、ピンチヒッターを出すタイミングにたとえ、緊張感のある絵を入れる間合いの話をしています。
武市さんとの電話の中でも、「いわさきちひろさんと絵の話をする時は、ここは直球で、ここは揺れるカットボールでいきましょうと、バッテリーのように進めていましたよ」と、笑いながら話していたことを思い出しました。そんな武市さんでしたので、ぼくは、古い野球雑誌を送ったことがありました。ウラ表紙にあった6大学のユニホームを、とても懐かしがっていました。
武市さんには、絵本作りは野球をプレイすることと同じだったのかもしれません。時に苦しみながらも、楽しいプレイで作られた絵本は、独特のチームカラーを持つ絵本チームになっていきました。このチームの中で、小野千世さんの絵本も〝感じる絵本〟として、大活躍をしていきました。武市監督のもとで、千世さんの打順は何番だったでしょうか。(続く)
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武市さんとの電話は、毎回メモして残していました。その中には、野球とは別に、武市さんが絵本作りに生かしていた「たとえ」(比喩)がいくつもありました。
- 〝絵本は料理〟関西風でいくか、江戸前でいくか、最初に腹をくくらなければ作れない
- 〝絵本は焼きそば〟やわらかい麺でいくか、硬い麺でいくか、まずそれを決めなければ作れない
- 〝絵本はラグビーボール〟楕円形のラグビーボールのように、落ちてからの動きがおもしろい
- 〝製版は数学〟デジタル化された製版は「整数」を使う算数、従来までのアナログ製版はxyzの「代数」が入る数学。このxyzが味となり美になっていく
おもしろいです。こうやって、ホームページに書き込んでいると、武市さんの声が蘇ってきます。(2022年6月)