出来上がった色校正を投げつけ、「一からやりなおせ。似たもの作るのが製版ではない。絵描きさんが描こうと想っても描き切れないものを、違う紙と、違う印刷インキという場に置き換えることで、ほんまにこれが描きたかったのだというものができるか、できないか。それが第二芸術としての製版だ。武市君が、これでいいといっても、うちの名前でこんなもの出せぬ」と、怒鳴る声の中に武市さんは居合わせました。

 これは、新日本セイハンで、社長の野村廣太郎さんが、製版(レタッチ)技術者に向かって発した言葉でした。

岩崎書店 1986年刊
文中の野村さんの言葉は、この本の「なんでゃ関西で」からの転用です

 武市さんは、銀座のデパートで開催されたカレンダー展で、大阪の製版会社が作ったカレンダーに魅了され、大阪に飛んで行きました。そこが新日本セイハンでした。新幹線がまだ無く、東京から特急で8時間かかる時代に、東京の出版社である至光社がわざわざ大阪の製版会社に発注することは、不思議がられていましたが、そこには武市さんの熱い思いがありました。

 本作りには、コミュニケーションが欠かせません。絵と文からなる絵本には、より細やかなコミュニケーションが必要です。武市さんは、この情熱的な野村さんと技術陣の力を生かしてもらおうと、声の手紙を利用しています。それは、原稿を入稿する際に、この絵本はどんな気持ちで作り、この絵はどこで遠近法をとらえているか、これだけは絶対にはずせない色だなどを、画家と至光社の皆さんがテープに吹き込み送っていました。

 そのテープと原稿が届くと、新日本セイハンの技術者が集まり、皆でこのテープを聞き、作業に掛かることにしていました。テープを聞いて、「ちょっとこの絵はおかしいのと違いまっか。わいの方はどないでも待ちますよってに」と、製版現場からの声が至光社に戻ることもあったようです。それを画家に伝えると、画家から「よく言ってくれた。もう一回描く」と、ストレートに受け止める画家もいました。

 このような画家と、受け取る製版の関係を知ったのは初めてでした。

 製版技術者として、このテープをどうしても聞いてみたいと、その気持ちを手紙に書いて至光社に送りました。残念ながら、残っているテープはありませんでしたが、これをきっかけに武市さんとの交流を持つことができるようになりました。

 千世さんからは、「ターさん(武市さんのこと)は、文字はほとんど書かない人で、首から(テープレコーダーの)マイクを下げている人でした。」「あの階段の多い、古い家(広尾の至光社)に何十回も行きました。古い不思議なトイレの印象が残っています。」と話がありました。武市さんの絵本制作の一場面が浮かび上がってきます。また、添削し戻ってきた文章には、「(野村さんの第二芸術の言葉に)画家のひとりとして、ありがたく泣いてしまいました。」「ターさんは、そりゃもう野村さんに惚れるわ。」と、大きな花丸と一緒に書いてありました。

 至光社から出版された小野千世さんの絵本も、新日本セイハンの人たちの技術で作られています。

小野千世さんの絵本『いとでんわ』(至光社 1971年刊)
奥付にはレタッチ作業者の名前とともに
美術管理:野村広太郎さんの名前も

 いとでんわでつながっている学者(何の学者でしょうか。手品の得意な似非学者でしょうか?)とネコの、静かなコミュニケーションの話です。この製版の色校正を見た時、野村さんは何と言ったのでしょうか。ぼくも〈製版のむずかしい絵〉で書かせてもらいました。(2022年4月15日)

《追伸》

 この章の冒頭の文章の野村さんの言葉を読み、黒子であるべき製版人が作家の作品を解釈し、手を入れているのではないかと違和感を持つ人もあったかもしれません。先日、東京都現代美術館で行われていた『井上泰幸展』を見に行きました。 井上泰幸さんは、ぼくたちの世代が幼い頃に心をときめかせた、怪獣映画の特撮美術監督です。

ミニチュアセットを何遍も周り、写真に収めている若者がいました
いつまでも見ていたいセット(真ん中の写真には自分の影が)

 展覧会の最後に井上さん本人が語っている映像がありました。そこで「円谷英二監督が、言いたくても言えないことを形にするのが、私たちの仕事」と話していました。まさに、野村さんが発した言葉そのものです。黒子の心意気がモノづくりの質を高めていることを、肯定していいのだと思うことができました。(2022年4月29日)