平野さんは神田生まれですが、戦後国立に引っ越してきました。昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、隣の立川市の軍事基地に多数の米兵が進駐してきました。国立の町にも米兵相手の簡易旅館や飲食店が出現し始めてきました。そこで、国立の町の環境を守ろうと市民や学生が立ち上がり、東京都文教地区建築条例の指定を目指す運動が起こり、平野さんも参加していきました。
町ではこの運動を応援する賛成派と、経済発展のためには文教地区指定は障害になると考える反対派がありましたが、町議会は文教地区指定を議決して都に申請。昭和27年に文教地区の指定を受け、自分たちの町を守ることができました。
この運動が終わった後も、集まりを解散してしまうことが忍びなく、集まりを土曜会と名付け、様々な活動を続けていきました。そのひとつに詩のサークルがあり、そこに平野 さんは参加しています。そこで生まれた詩集は「ボロクソ詩集」という名であり、平野さんが宮沢賢治の童話をヒントに付けました。第1号で、平野さんは「うんとへたくそな ぼろくその詩をつくろう」と呼びかけています。
この詩集は33号まで続きました。平野さんは、2009年に詩集をコピーして製本したものを公民館に寄贈しています。
平野さんは、「好きな賢治の詩は、諳んじることができる」と自慢していました。
亡くなる数か月前に、譲り受けていた賢治の『雨ニモマケズ』の手帳(複製)を、申し訳ないが返してほしいと言ってきました。平野さんには、この手帳が心の拠り所だったのでした。
平野さんが追い続けた白黒写真と、詩の共通点をずっと考えていました。それは、現実の一瞬を切り取り、端的に記録するところだったのではないでしょうか。平野さんにとって、写真と詩は兄弟だったと思います。
平野さんは、詩人の茨木のり子さんの詩に魅かれ、何年か年賀状を中心に文通をされていた時期がありました。平野さんと同世代である茨木さんの詩は、賢治の詩とも重なり、平野さんの心を揺さぶり続けていたと思います。〈続く〉(2022年3月)
〈文章教室にて〉小野千世さんから、サンリオ『詩とメルヘン』誌上で、茨木のり子さんの詩に絵を添えたことがありましたと、話されていました。