多川さんの「敗戦日記」を読みました。
最初は読みづらかったのですが、『紙魚の手帳』に寄稿した時にぼくの文章に入れてくれた赤字と同じ癖の字とわかると、楽に読めるようになりました。そして読みはじめて驚いたのは、府立東京工芸学校を卒業して就職し就いた東方社に対する憤りが繰り返し書いてあることでした。
昭和19年の秋の日記には、東方社のあるビルの鉄扉を閉ざし、大学教授や参謀本部の職員そして東方社の幹部が泥酔状態になるほどの酒宴をしている光景を目撃し、東方社幹部の正気を疑い『亡国の行為』と書いています。
一方で、昭和20年の1月の日記には「午の休み時間」と題し、職場から近い靖国神社の冬の日の風景を書いています。陽だまりのベンチでお弁当を食べる人たちに愛おしさを感じ、芝生に横になって見上げた青空に、好きな山を想う22歳の多川青年がいました。そこには、後に山岳写真集を出したカメラマンの目があったように思いました。
昭和20年の5月の日記には、「日本人に対する疑い」と題し、警官・役人・軍人・駅員・商人がそれぞれの職権を利用し、私利私欲に狂奔する姿を目にしながらも、何もできない焦燥感から自分を一本の藁と自嘲し終わっています。そして、その後ろの日記は切り取られており、無我夢中で読んできたぼくは、突然放り出されてしまったような気持ちになりました。
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「E+D+P」に書かれてる貴重な資料を何とかして残していきたいと、多川さんの了解を得て、2006年にホームページを立ち上げました。多川さんから購読者リストをお借りし、開設案内のハガキを送りました。多川さんも新しい媒体が、新しい接点を作り出してくれるのではと楽しみにされていたのですが、反応は乏しく1年で閉じることになりました。
「紙魚の手帳」に関しても、ぼくと同世代のデザイナーが引き継ごうとしたのですが、資金の管理が行き届かず引き継ぐことはありませんでした。ぼくの方がお金の整理を手伝いました。預かりながらも使っていない残金のリストを作り、切手にして購読者に返却していきました。多川さんと奥さまお二人で、封筒へ切手の封入作業を行いました。ぼくが開設したホームページも、それまでの購読者と多川さんの心のつながりを、もっとしっかりとイメージできていれば、別の進め方もできたかもしれません。
多川さんが情熱を注いで出し続けた『E+D+P』と『紙魚の手帳』を継承することはできませんでしたが、出版と印刷に対する想いは継承できたと思っています。戦前の日本の粗末な印刷物と比べ、欧米の印刷物はしっかり作られています。特に欧米の児童向けの印刷物はすばらしいです。多川さんは、印刷物にその国の文化が表れると考えていました。「敗戦日記」の中で、憤る気持ちをぶつけてきた東方社でしたが、グラフ誌『FRONT』の手本としたのは敵国の印刷物でした。印刷物を作り出す(グラフィックアーツ)技術をそこから盗み、それを越える印刷物を目指す技術者が日本にもいたことを、憤る気持ちを抑え『戦争のグラフィズム』(1988年刊・平凡社)と『焼け跡のグラフィズム』(2005年刊・平凡社)を本にしたのだと思います。
この2冊を執筆していく中で、多川さんご自身も戦時という狂った時代の中で、酒宴へ逃避した東方社の幹部たちを受容できるようになったのではと思っています。ご自身は、丁寧な印刷物作りをいつも心掛け実践していったのだと思います。ぼくの脳裏には、その姿勢が深く焼き付いています。
多川精一さん、ありがとうございました。 (終わり)
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小野千世さんも最後に「多川さんバンザイ」と書いてくれていました。(2021年12月)