製版に入稿する原稿の写真を取り扱うようになり、自分でも写真を撮るようになりました。小さい頃からカメラをおもちゃにしていましたので、カメラをいじることも好きでした。横浜から持ってきていた父のペトリの2眼レフで東京の町を撮っていました。そして『紙魚(しみ)の手帳』に寄稿するための下書きと一緒に多川さんに送り、見てもらっていました。
多川さんからは写真に対してアドバイスがありました。
一枚は、地元の小金井公園に咲くコブシを撮った写真です。コブシの背景には曇り空を支えるように鉄塔が写っています。この鉄塔を外した構図を狙ったのですが、曇り空とのバランスから鉄塔をよけることはできませんでした。それでも、多川さんは「この写真は鉄塔があるから、よいのだよ。」と言われました。
多川さんは、戦前東方社で携わっていたグラフ誌『FRONT』の誌面で、戦車や戦闘機の写真を扱ってきました。昭和18年に金属類回収令が公布され、回収された鉄で戦車や戦闘機は作られていたことも知っていました。
戦後になり、鉄は荒廃した日本の中で、今度は鉄塔に変わっていきました。東京タワーも朝鮮戦争で使われた米国の戦車から作られていました。
戦車や戦闘機を作ったのも人、鉄塔を作ったのも人です。ぼくには風景の中で余計に見えた鉄塔も、多川さんには鉄製品が人の生きるたくましさに見えたのかもしれません。「鉄塔がよいのだ」の言葉で、多川さんは写真の見方にはいろいろあってよいのだと言っているように思いました。
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もう一枚は、地元の栗林に咲くハナダイコンの写真です。「紙魚の手帳の表紙に使いたいね」と言ってくれた多川さんの言葉がうれしく、表紙の真似をして文字を入れた写真も見てもらいました。
多川さんはそれを見て「きれいだけれど、冨成(Ⅱで紹介した富成忠夫さん)は、このような撮り方はしない」と言われました。
冨成さんの写真集をもう一度隈なく見てみました。悩みました。ひとつ気付いたのは光の違いでした。
ぼくの写真は、強い光の中に立つ木と花です。木と花を題材にコントラストのおもしろさを写真にしていました。光が主役にもなっています。一方、冨成忠夫さんの写真では、やさしくソフトな光の中で、植物そのものを主役にした写真が多いことに気付きました。冨成さんは画家から植物写真家になった人です。そこには、植物の生きる姿への感動を描く画家の心が出ているのだと思います。
多川さんは写真には、写す人の心が出ることを伝えたかったではと思いました。多川さんご自身、谷川岳の写真集を出版されていますが、そのことを口にすることはありませんでした。人の写真を生かすことだけに力を注ぎ続けた人でした。
「写真家は自分の心の内面と向き合いながら撮っています。写真にはその人の心が出ます」そう話している多川さんの声が聞こえてきます。インスタグラムなどのSNSで、誰もが写真を気軽に見せることができる時代になりました。だからこそ、ぼくは多川さんの言葉を大切にしたいと思っています。
(続く)
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文章教室の小野千世さんの赤字には、「右下の文字の色が気になります。文字が主役になってしまい、せっかくの写真のコントラストを壊しています。」と書かれていました。小野千世さんは、やはり画家。多川さん同様、大変ありがたい指摘でした。(2021年12月)