レイアウト作業中の多川精一さん

 以下の文章は、小野千世文章教室の「フレンズ」の一人として多川さんのことをベースにしています。書き始めると走馬灯のように次から次へと思い出がよみがえってきました。(2021年12月)

 多川さんはデザイナーです。デザイナーというとカッコいい響きがあります。しかし、ご自身は預かった原稿を紙面にレイアウトしているだけと、デザイナーという言葉を使うことはありませんでした。

 昭和16年に東京府立工芸学校を卒業後、母校の恩師であった原弘の助手として、陸軍参謀本部と旧財閥を後ろ盾に作られた東方社に就職し、日本の軍事力を対外的に誇示するためのグラフ雑誌『FRONT』の制作に携わってきました。終戦で、宣伝媒体をつくる無意味さを思い知らされながらも、生活していくために、身に染み付いた技術を元手に、グラフィックアーツ(絵や写真を用いて視覚に訴える印刷物を制作する)業界で仕事をしてきました。

 最初にお会いした時、「貴様は誰だ」というように、じろりと睨まれたことを覚えています。多川さんは、戦後のグラフィックデザイン界では有名な人でした。美術大学に通う多川さんの甥が、多川さんを題材に卒論を書いています。題名は『へそ曲がりデザイナーの60年史』です。この題名からも、甥御さんにも同じ目つきで接していたことが想像されました。それでも話をするようになると、温かい気持ちを持ったやさしい人であることがわかりました。

 多川さんのことを知ったのは、『E+D+P』という小さな個人誌からでした。E(編集)、D(デザイン)、P(印刷)の頭文字から、この誌名は付けられました。三者がお互いの立場と技術を理解し啓蒙し合い、印刷物を作っていこうという想いがこめられていました。

 ぼくがこの冊子を手にしたのは、印刷の前工程である製版にプライドを持ちながらも、仕事に悩んでいる時期でした。当時のぼくは編集者やデザイナーと一緒に歩んでいく気持ちを持つことはできませんでした。印刷の色が気に入らないと、製版と印刷が悪いと一方的に言われる関係に嫌気がさしていました。このような時に『E+D+P』の読者になりました。ここには、熱い思いを持った印刷人が寄稿し、デザイナーと印刷人の輪がありました。ぼくはこの冊子から、たくさんの勇気をもらいました。1号が1979年4月に刊行されてから、1997年12月の49号まで、この冊子を18年間ゆっくりと大切に作ってきたことがわかります。

 49号が届きしばらくすると、多川さんから読者に手紙が届きました。そこには今の出版界・印刷界に対して、「抱いてきた夢と逆の道をたどっている」と失望の言葉があり、『E+D+P』運動の幕を引くことが書かれていました。多川さんの夢を何とかつないでほしいと、印刷人の一人としてじっとしていられず、ぼくはペンをとりました。その手紙が50号の最終ページに掲載され、それをきっかけに多川さんとお会いするようになりました。