坂本さんとの打ち合わせは、いつも日暮里駅前の喫茶店でした。朝の10時から夕方になってしまうこともありました。コーヒーを何杯も頼み、昼食もそこで食べました。エビフライを頬張りながらも、話しが止まることがない坂本さんを思い出します。

日暮里駅前の老舗喫茶店ニュートーキョー

 坂本さんは映画の予告編を見ただけで、その映画の内容を想像して語れることが特技と話していました。話しをしながら次から次へと心の中に話したい気持ちが湧いてくる坂本さんでした。しかし、その気持ちが止まった時がありました。

 それは奥さまを亡くされた時でした。坂本さんの詩集のガリ切りをずっと手伝っていた方です。坂本さんは、奥さまが亡くなった翌日に体調を崩され急遽入院となり、告別式にも参列することができませんでした。しばらくして病院から「妻恋」と書かれた詩が入った手紙が届きました。思慕の気持ちが伝わっています。

 さらに翌年、娘さんを病気で亡くされています。その日は、2012年5月21日の皆既日蝕があった日でした。ぼくも職場近くの歩道橋から薄暗くなる日中の太陽を見ていました。亡くなったことを知らせるハガキの住所は病室でした。奥さまと娘さんを続けて失った悲しみはとても大きいものであったと思います。

 しかし、坂本さんが、本当のすごさを見せるのはここからです。病院の四人部屋の自分のベッドを城と構え、そこで貪欲に本を読み、小さなDVDプレイヤーで映画を観て、詩と文章を書いていきました。ポスターを貼る場所はありませんでしたが、心の中には大きなポスターが貼られていました。

 坂本さんは、友人に「ひとりごと」という題の26枚からなる文章を送っています。ぼくにも送ってきました。ぼくも友人の仲間になっていました。うれしかったです。内容は、相変わらず坂本さんらしくやや過激で、この文章を見た弟さんから怒られてしまったと困ったように話していたことを覚えています。

 この力はどこからくるのでしょうか。坂本さんの生そのものからとともに、長く続けてきたレタッチという仕事も坂本さんを後押ししていると思っています。坂本さんが現役時代のハンドレタッチは、デジタル化とともに消えました。しかし、人の作品を美しい印刷物に作り上げていく技術(力)は、いつしか坂本さん自身を応援する原動力になっていたと思います。

 最後に、坂本恵一さんの講演資料と「ミコヒダ」カードを載せておきます。資料には、たくさんの実例が載っていましたが、そこは**印刷、**製版としました。たくさんの会社を見てきた中で得た、坂本さんの確信が手書きの文字から伝わってきます。特に営業と製造現場の立ち位置、工務(生産管理)の考え方は現在にも通用する内容と思います(全11枚)。「ミコヒダ」の〝ヒッカケル〟は、普段使うものと連想して覚えておくと、忘れず落さないという意味です。いつか誰かに利用してもらうことを、坂本恵一さんも待っていると思います。

https://yurin-book.com/wp-content/uploads/2022/02/坂本恵一さん講演手書き原稿.pdf

ある女性DTPオペレータのモニターフードに
ミコヒダが今も貼られていました(2021年)

 長引くコロナ禍、そしてロシアのウクライナ侵攻という時代を前に、「オイオイ、おかしなことに振り回されるなよ。地に足を付けていれば大丈夫。賢い人の武器は丸めたポスターだ。」と話す、坂本さんの声が聞こえてきます。

 坂本さん、本当にご苦労様でした。そしてありがとうございました。〈終〉(2022年2月25日)