フレンズの三人目は、坂本恵一さんです。坂本さんは、ぼくと同じ製版技術をベースに印刷物の品質をずっと見てきた大先輩人です。

 坂本さんは、多川さんが1979年4月にスタートさせた冊子『E+D+P』の中で、グラフィックアーツ界に向けて、優しいまなざしと厳しい戒めを発信していく活動に参加し、支え続けた人でした。1981年の6号では「製版側からの発言・カラー出版物の品質管理」を寄稿、以降『E+D+P』には製版人としての5回登場しています。

 坂本さんは、終戦の1945年に東京市立上野中学校(現在の上野高校)を卒業してから、70 歳を越えるまでグラフィックアーツ界を走り続けてきました。最初に就いたのは、大日本印刷の写真製版課の画工(レタッチ)見習いでした。

 坂本さんは、そこで労働組合の反戦活動に力を注いでいきます。朝鮮戦争で使われる米国軍事印刷物の印刷ボイコットを企て、アメリカ進駐軍のMP(Military Police)に連行されて拘置所に入っています。そしてついに1956年に、27歳で会社から解雇されています。

 坂本さんは、当時の大日本印刷社報を保管しており、そこには『企業防衛及び職場秩序確立のための人員整理』とあります。レッドパージ(日本共産党員と支持者に対する不当解雇)でした。現在では考えられませんが、その社内報には48名の解雇者の名が載っています。その中には、戦前に戦争画を描くことを嫌い画工となった小山田二郎の名もありました。

 坂本さんは、昼休みにインキ缶の蓋をパレットにして、印刷用のインキを油絵具で、ありあわせの紙に絵を描く小山田さんの姿に魅かれていきました。小山田さんは、どの若者にも対等に接し、独特のユーモアと風刺精神で社会・人間・文学・芸術を語り、いつも多くの人が周りに集っていたそうです。

 2~3年の短い期間でしたが、小山田さんと接していく中で、軍国少年であった坂本さんの荒廃していた気持ちは清められ、自信回復していきました。小山田さんとの出会いは、その後の坂本さんに大きく影響を与えていくことになりました。 

https://yurin-book.com/wp-content/uploads/2022/01/こころの小山田二郎(坂本恵一).pdf

↑ 坂本さんが晩年に書いた小山田さんの原稿と、『プリンターズサークル』(日本印刷技術協会〈JAGAT〉刊)の連載記事です。坂本さんの「熱い」思いが伝わってくる文章です。

 文章教室でこの話を発表した後で、小野千世さんからは「小山田さんの絵は何度か見ました。その度に心の奥まで響いたような気がします。」との言葉がありました。

 ぼくも小山田さんの絵は、展覧会で観ました。最初は不気味で不機嫌な顔にしか見えなかった絵が、小山田さんのことを知ってからは、絵は少しずつ心の中に溶けるように入ってきました。(続く)